山梨の丸眼鏡
山梨は明治期以前より水晶の採取に伴い水晶研磨技術が発達したといわれています。
研磨技術は当然レンズ加工技術にも応用されていたであろうと考えられておりました。
地元山梨出身の藤原義久氏が山梨県時計宝飾眼鏡商業組合の組合情報誌「山時協だより」(第26号・H20.1月発行)に投稿された「眼鏡史における山梨」という題での記事に山梨の水晶レンズを使った丸眼鏡、足踏み式加工機のことについて興味深い記事が載っておりましたので、紹介させていただきます。
眼鏡史における山梨
現在、眼鏡の産地というと福井県の鯖江や、眼鏡史を語るには特に関西が多く取り上げられていますが、日本の眼鏡の発達は明治以降であり、当時は一部の限られた人たちの持ち物であつたと思われます。
ところが、山で囲まれた山梨の地で明治以前、甲州の名産品には水晶があり、武田信玄の甲陽軍鑑などにも「遠目鏡」などの記述が残っており山梨では、水晶の研磨技術を応用した、独自の眼鏡産業が発達していたと思われます。
このことは、1938年度の光学レンズの生産数でも山梨は、東京、大阪、千葉、京都につづいて五番目の生産数を誇っていたとの記述があります。残念なことに戦争で甲府市を中心に、多くの貴重な資料が焼失してしまい、現在では水晶眼鏡に関する記録や当時の加工道具などはほとんど残っていないかと思われましたが、近年当店の古い倉庫の中から数多くの資料が発見されました。
当店は市街地から外れていたということから空襲の被害はなく、明治期からの資料が多数残っていました。その中には、国内でも現存する可能性が極めて低い、足踏み式のレンズ加工機などもあります。このレンズ加工機は友摺りという方法で、ガラス製の回転盤で眼鏡レンズを削るというものです。現在の加工機とは違い大変簡単なもので、当時のレンズ加工の大変さがうかがわれました。
当店では創業から百年を数え、私自身、時計や眼鏡の歴史について非常に興味を持ち、次ぎの時代へ貴重な資料を残していくために歴史研究を始めました。
今年の夏、山梨で作られた古眼鏡を入手しました。フレームの材質やレンズの状態などから時代特定を行うと、幕末から明治初期の眼鏡ではないのかという結論が出ました。
使用されていた眼鏡レンズには、水晶が用いられていました。レンズといっても現在のように、きちんとヤゲンがあるわけではなく、鍵箱のようなものでレンズのふちを削り取り軽く面取りを行った簡素なつくりの眼鏡です。
今回、大変珍しい水晶レンズの古眼鏡なので、当時の技術を解明するためにレンズの素材の特定のため、モース硬度から硬度を比べレンズの素材がガラスなのか水晶なのかを検証してみました。
水晶は硬度に対して、ヤスリ(硬度6 )のものと比べ硬いということがわかりました。また、表面に水晶特有の屈折光が見られるためこのレンズは水晶であることがわかりました。洗浄してレンズ表面を観察すると、レンズとしては百年以上経過しているのに黄ばみや汚れなどがなく、非常に透明度が高い事がわかりました。
そのほかにも驚くことは、現在の同じ度数の眼鏡レンズと比べると非常に薄いということがわかりました。現在のように優れた光学技術があるわけでもないこの時代に、このようなすぐれたレンズをつくる研磨技術がいかに高かったかがうかがえます。
私は現在、近江時計眼鏡宝飾専門学校の3年生です。本校は国内で唯一、時計、眼鏡、宝飾を3年間で学ぶことができます。本校では基本技術だけではなく、ものづくりの大切さ、伝えていかなくてはならない技術の大切さを教えてくれる数少ない学校です。
最後になりますが、現在も研究のため資料等を集めています。もし、幕末や戦前の貴重な文献や資料をお持ちの方はぜひご協力をよろしくおねがいします。
【参考文献】 眼鏡商工通覧、時計光学年間、眼鏡の歴史
(連絡先)山梨県山梨市一丁田中085-1
藤原時計店 藤原義久 (TEL)0553-22-0701
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※藤原氏に転載許可いただき掲載いたしました。
水晶レンズ使用の古丸眼鏡
足踏み式加工機
(撮影 藤原義久)
丸メガネに関しては
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